中世には、「許し」をあたえるのは、仏であった。
中世には、「許し」をあたえるのは、仏であった。 現代では、「許し」を公にあたえることができるのは、裁判官である。裁判官に敬意が払われるのは、裁判官が、機能として、神仏だから。 とくに、刑事事件において顕著である。 あれは、まさに、宗教の儀式だ。 そう考えると、刑事裁判で、やたらと、被告人が「反省しているのかどうか」が問われる理由が分かる。 刑事裁判は、法律がどうとか言うより、宗教的な、懺悔の場なのである。 週刊誌などで、「破産制度は、現代の『免罪符』か」というような記事が書かれていることがある。 これは、たしかに鋭い指摘である。 まさに、そのとおりなのだ。 破産制度は、現代の宗教の儀式なのだ。 その意味で、中世の宗教的行為であった、免罪符と共通する点があるのは、当然のことなのだ。- 次のページへ:ものごとには、正解がない
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